大いなる世界に支えられて生きる


釈尊


■「合掌がっしょう」とは

お寺にお参りしたときや家庭のお仏壇の前に座ったとき…。食事の前後にも合掌をして多くのいのちをいただいて,このいのちが成り立っていることに感謝します。魚や肉や野菜などの多くのいのちをいただかなかったら「わたし」は存在していません。そのことに気づかせていただくのです。合掌するということは、自分を見つめ、他人への思いを巡らす、あるいは感謝の気持ちを表現する宗教行為の基本です。


■「礼拝らいはい」とは

仏さまの前で合掌をすると必ず「頭(こうべ)をたれる」、頭を下げる行為が続きます。皆さんがお仏壇の前に座ったとき、自分の目の高さより少し上の方に仏さまのおられる蓮台(れんだい)があるようになっています。この高さは、手を合わせ頭をさげたときに、自分の頭を仏さまの足や蓮台につけるという意味があり、古代インドの礼法に基づいているもので人間同士ではこのような挨拶はしません。仏さまの足に自分の大切な頭をつけるというのは、最高の敬意を表しています。つまり、仏と仏の世界は人間の思慮分別では量るこのできない大いなる存在であり、文字通り「頭(こうべ)をたれる」行為が合掌礼拝であることを表しています。


■「自分を見つめ直す」とは

人々は、長い歴史のなかでお仏壇に向かって、「頭をたれる」という行為をしてきました。振り返ってみると、自分を超越した大いなる仏さまに何としても自分の欲求を叶えて欲しいと思い、すがってお願いをすることもあったでしょう。

けれども、そうした自分にとって都合の良いことだけで「頭をたれる」という行為をしてきた訳ではないはずです。愚かな言葉や行動によって争いが起こり、どうしようもない苦しみや深い悲しみで心が埋め尽くされたとき、真実で清らかな慈悲あふれる仏さまの心を求めていったことでしょう。仏さまによって自分のありさまがあぶりだされ顕わになってくることにこそ、私が仏さまに「頭をたれる」意味があるのです。


■仏陀・仏教とは

私たちが合掌礼拝する仏さまとは、どのような仏さまなのでしょうか。

今から2500年程前に、誕生されたお釈迦さまは、インドのコーサラ国とマガダ国に挟まれた部族(シャカ族)の王子で、シッダルタ太子と名づけられました。太子は、幼い頃より人生の生老病死の問題について深く思索されていましたが、29歳のとき、王位の座を捨てて沙門(しゃもん)となって、厳しい求道(ぐどう)の生活に励まれました。その後、35歳のとき、ついに真理の法(ダルマ)に目覚めて仏陀となられたのでした。

仏教は、仏陀であるお釈迦さまが説かれた教えであるとともに、仏陀になることを目指す教えであります。お釈迦さまは、私は真理の法を発明したのではなく、発見したのだと述べられています。そして、私がこの世に現れようと現れまいと真理の法は存在したのであり、その法に目覚めたものは仏陀になると説かれています。だから、仏教にはたくさんの仏さまがおいでになるのです。


―参考文献 『浄土真宗はじめの一歩』本願寺出版社


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